人間性と神性の果てに;
スコセッシ監督とカザンザキス様の救世主
DVDなりますものがこの世に誕生しましてから、まだ然程時が経っておりませんのに、既に廃盤になってしまわれましたお品も多くございますようで。私好みのマイナーな映画の数々も、そうした憂目に少なからず遭ってしまわれております。ので、購入出来ますものは購入出来ます際に、さっさと購入致しましょう!と、思うようになりました今日この頃。先日、Amazon にて新品なのに激安特価で販売されておりました、マーティン・スコセッシ監督の『最後の誘惑』をゲ~ット!イエス・キリストを‘人間’として描きましては、センセーションですとか、小インテリな議論ですとか、暴動騒ぎを巻き起こされました名画でございます。それが本日、無事私の手元に届いて参りました。この作品は私が大学の卒業論文で取り上げましたこともあり、故に既に数え切れませんくらい観返しております。ので、別段直ぐに再鑑賞します気はございませんでした。が、とあるワン・シーンだけに関しましては素早くチェック!それはウィレム・デフォー様が演じられますイエス様が、ゴルゴダの丘で磔刑に処せられます場面でして。恐る々々、観てみましたら…超ラッキ~!
ボカシが取り除かれておりました♪
そうなのです。『最後の誘惑』をそもそも、私がビデオで既に持っていないはずなどございません。如かしてそれは実に古い、十ん年前の代物でして…デフォー様のオール・ヌードがバッチシ御拝見出来ちゃいますはずのこのシーンには、忌まわしきボカシが入っていたのでございます。芸術に対します、何たる冒涜!デフォー・ファンに対します、何たる拷問!なります怒りを抱いてはおりましたが、当時としましてはボカシは常識。如何なるものでもありませんでした。が、しかし!ビバ、DVD時代!VHSと比較しまして、圧倒的な映像の美しさを誇られますDVDに於いては勿論、ボカシやらモザイクなぞが存在を許されましょうはずなど無かったのです!嗚呼、我が念願が叶います時が来たれり!遂にデフォー様のおイチモツを御拝見させて―
むっ?無無無無無!無いっ!
『最後の誘惑』では古文書や古典絵画に倣いまして、磔刑は罪人さんのお膝を曲げました状態で描かれております。実際、磔刑というものは罪人さんの両脚を伸ばしたままですと、お身体の重みを釘で打たれました両手が支えきれなくて、上手く行かないとのこと。故に腰を少々捻って頂きますようなポーズで両脚を折り曲げて頂きましては、足下には体重をかけられます小さな台も十字架に付けられておりましたとか。こうした史実に則して磔シーンを再現されました、『最後の誘惑』。見事過ぎます、リアリズム!さすがは巨匠、スコセッシ監督様々!ですが、お蔭様で…
デフォー様のチンチン、見えねーじゃんかよっ!

芸術性とリアリズム追求に関しましては、何ら文句の付けどころがございません傑作ですが…サービス精神が欠如しているのではあ~りませんか~?だって本当に、チビッとも映ってございませんのよ。ビデオ版でのボカシは、一体何だったのでございましょ?其処にはございません性器を、恰もございますかのように期待させてくださって!詐欺ですわ、詐欺!エロくないものを、然もエロくお見せになるなんて!それこそ映倫の本来の目的に、真っ向から反してはございませんこと?人間様ならボカシやモザイクを眼にしませば…
其処に‘アレ’がありますもの♪
と、誰しもが思い込みますのも当然でございましょうが。と、まぁ斯様なことは如何でも宜しいのですけど。本日は、真面目!に、この『最後の誘惑』なりますイエス様の半生を描かれた作品について、少々述べさせて頂きたく存じますので。ちなみに、この作品について指定文字数分を延々と書き記しました私の卒業論文の評価は…イマイチ、でした(涙)。‘映画学の論文としてのテーマ性に欠けている’との御評価を、諸先生方から頂戴しました次第で。そもそもこの映画を卒論に取り上げますことに関しまして、事前に担当教授・Y川先生と大喧嘩までしてしまいまして。「お前が書こうとしているのは宗教学の論文であって、映画学科の卒業論文に相応しくない!」と、Y川先生が仰っていらした御様子を鮮明に記憶してございます。その場では何やかんやと言い返しておりました私ですが、今となりましてはY川先生の御指摘通りでしたこと、反省と共に認めましてよ。でも、あの時は如何してもっ!
『最後の誘惑』について書きたかったんですもの♪
このように何かに酷く取り憑かれてしまいますと、私は一切他の物事への興味を失ってしまいます体質で。健気で一途な女、とでもお呼びくださいましな。私は恩師・Y川先生の親心をも踏み躙りまして、実に稚拙極まりございません宗教学っぽい論文を提出しましては、芸術学部映画学科を卒業しました不届き者に相違ございません。それにしましても、大学側も良くぞ卒業証書をくださいましたものですわ。‘入るは難し、出るは易し’と我が国の大学システムが、バッシングされますのも頷けましてよ。それにしましても、何故に私がそうまで『最後の誘惑』に拘り尽くしましたのか?とでも、お尋ねくださいませね♪答えは誠に単純ですが…『最後の誘惑』なります映画は、生を授かりましてから21年目にして、ようやく私にキリスト教なります宗教について、理解させてくださいました作品なのでしたから。それの何がそんなに凄いのでしょう?とも、お尋ねくださいませね♪答えは誠に恐縮ですが…私は中学・高校とキリスト教系の私立校に通っておりまして、其処で礼拝ですとか、聖書の授業ですとか、牧師先生のお説教ですとか、兎にも角にもドップリとイエス様漬けの日々を六年間も過ごしておりましたのに、
キリスト教って全く理解不能でしたもので♪
嗚呼、私は斯くもおバカな中高生でしたのかしらん?或いは学校側や牧師先生の御説明が不足しておられたのかしらん?勿論、正解は後者でしてよ!私が在籍しておりましたS女子学院ったら、全く!信じなさい&祈りなさい&感謝しなさいの一点張りで。何故に信じねばなりませんのか?何故に祈らねばなりませんのか?何故に感謝せねばなりませんのか?等々の疑問以前に、何を信じろと仰っておられますのか?何を祈れと仰っておられますのか?何を感謝しろと仰っておられますのか?すらも、有耶無耶の儘でして。あれで教育機関の看板出していらしたなんて…笑っちゃいますわよ。おほほほほ!←有言即実行ノ図。まぁ、細かい点は見逃して差し上げますけど。でも、イエス様が磔になりますことで…
何故に全人類の罪が贖われますの?
と申します、キリスト教の真髄たらん部分までをも曖昧にされましたのには、開きましたお口が塞がりませんでしてよ。なのに、‘我らの罪を贖ってくださった、主イエス・キリスト’が、如何したこうしたとばかり仰って。イエス様が罪を贖ってくださったこと自体は、既存のお約束事ですとか、暗黙の了解のような扱いになっていらして。まるで黄門ちゃまの印籠のように、‘罪を贖ってくださった’旨が総ての出発点にして帰着処の如く、私を含みます生徒達は、問答無用でそれを信じますよう強要されておりました。そのような信仰の押し売りを学校側がなさっていらしたので、私達生徒は素直に鵜呑みをば致しましては、鵜飼いの夜釣りよろしく…
後程、ウェッと吐き出しておりましたけど♪
このような思春期を送らせられました故、高校を卒業します頃の私は、イエス様に対して余り宜しい印象が抱けぬようになっておりました。それまでの六年間は毎朝のように、礼拝でイエス様を称えます讃美歌を唄い、イエス様に向かってお祈りを捧げておりましたのに。なのにイエス様は、私にとりましては赤の他人様よりも遥かに遠い、見知らぬ存在でしかなかったのです。何せイエス様は、‘神の子’でいらっしゃるとのことでしたから。‘神’という存在ですら、‘遊星からの物体Ⅹ’ですとか、『Ⅹ-ファイル』のUFOですとか、小難しい数学の方程式のXのようでいらして。私にはチンプンカンプンのトンチンカンチンの、気にしないっ!って感じの、謎に満ち々々たお方様でしたので…
信仰心どころか、親近感まるで無し♪
如かして、そんな私のキリスト教に対します数多の疑問&難問&珍問&愚問を、ほぼ一気に総括して解き明かしてくださいましたのが映画、『最後の誘惑』でありました。物語は冒頭で軽く触れましたように、ジーザス・クライスト物語を描かれた何ら珍しくもないキリスト様映画です。けれども『最後の誘惑』に登場なさいますイエス様は、ブロンクス訛りの常用英語でお喋りになられていて、小泉首相の猿にも分ります国会演説同様に、大変親しみ易いお方様でした。それでもお弟子様方は彼の言動に時として疑いを抱かれたり、大抵の場合は‘まぁ、何かお考えあってのことだろう’、と申します程度にしかイエス様を御理解なさっておられませんでした。そんなお弟子様方のお姿は、中高生時代の私自身を彷彿とさせてくださいます。この映画に於いては、
凡人が‘神の子’を解せぬことは当り前…
なことなのでした。お弟子様方はイエス様に惹かれながらも、家族や財産を捨てられて彼との布教の旅に出られたことを、少なからず悔やまれてさえいらっしゃいました。彼らはやがて訪れることと約束されていたユダヤ教の救世主(=キリスト)が、彼らが慕いますナザレのイエス様であると、俄かに信じて出家されましたような境遇ですもの。一般人が何の修業もされずに、いきなりお坊さんになられた訳ですから、迷いを払拭出来ずとも致し方ございません。ですがそんな中、お一人だけ御納得が行かれますまでイエス様に御自身の疑念を、余す所無く堂々と打つけていらしたお弟子様がおられました。そのお弟子様とは、後の人々に‘裏切者’としての烙印を押されます運命にございます、
イスカリオテのユダ…
他なりません悪名高き、そのお方様でありました。歴史的事実が如何ですかは別としまして、『最後の誘惑』でのユダはローマ軍のユダヤ人支配と闘っておられます、地下組織の一員として設定されておりました。ユダはユダヤ人解放の為であれば、お命すらも惜しまずに果敢に戦われますような、甚く強靭な精神の持ち主様でいらして。彼はナザレのイエスが、ユダヤの民をローマから解放へと導いてくださる真のキリスト様でありますかを見極めるおつもりで、彼のお弟子様になられたのでした。「今日の説教でアンタは‘右の頬を打たれたら、左の頬も差し出せ’と言った。俺はそれが気にいらん。そんなことをするのは馬鹿か、畜生だけだ」などと、ユダはイエス様の教えに対して率直に異議を唱えられます。彼がお感じになっていらした違和感の多くは、
かつて私が中高生の頃に感じましたものと同じでした。!

ので、私はイエス様が如何に御返答なさるのか興味を抑えられませんでした。イエス様は、それは心の持ち方を例えて話した訳であって、実際にそうするように語ったのではない…みたいなことを仰いました。更に彼とユダは遣り方が違うだけであって、‘求めていることは同じ’であるとも。それに対しましてユダは、「俺が求めているのはローマからのユダヤ人の解放だ。なのに、アンタは‘敵を愛せ’とまで言う。求めているものが同じだとは思えない」と、反論なさいます。そうしましたらイエス様は、
「私だってローマからの解放は望んで止まない。けれども真の自由を得る為には、先に精神を解放しなければならない。人間の土台である精神の解放無くして、肉体の解放は在り得ない」
と、主張なさいました。そしてそのお言葉通りに、『最後の誘惑』のイエス様もその他の数多のキリスト物語のイエス様同様に、やがては御自身の肉体と引き替えに全人類の罪を清めては、精神を解放してくださいました。けれどもこれはイエス様と神様の間でのみ、秘密裏に交わされました御契約。当時のその他大勢でいらした凡人様方は、イエス様が何を成し得ようとされていらしたのか、皆目御存知ではいらっしゃいませんでした。彼ら;ユダヤの民の皆様方は、イエス様が御自身達をローマから解放してくださらないものと判断するや、それまではスーパー・スターのように崇め奉っておりましたのに、掌を返されましたかの如くローマの提督・ピラト殿に彼の磔刑を求められたほどで。お弟子様方の多くも同罪になりますことを恐れて、イエス様とは他人のフリをして逃げてしまわれました。ですが確とイエス様を敬愛し続けられたお弟子様が、少なくともお一人だけはいらしたのです。敬愛されますが故に己の師であるイエス様に頼まれて、涙ながらに拒みつつも断り切れずに…
彼の居場所をローマ軍に密告された、ユダが。
聖書ではローマ軍を引き連れてイエス様のもとへと参られました際に、ユダが皮肉を込めた接吻をキリストにしたことが記されています。私は‘皮肉を込めた接吻’なります行為が、如何なる心境のもとにされますものやら?と、予てからピン!と来ませんでした。本当に憎たらしくて敵に売り渡したのであれば、一発打ん殴って差し上げます方が余程に自然な行いかと思われましたので。なのに、接吻?キス?ベーゼ?とは、此れ如何に?ユダが実は同性愛者でいらして、イエス様に岡惚れなさったものの一向に相手にして頂けず、その恨みから裏切ってしまわれた序でに、念願のブチュ~♪をなさったのかしら?なぞと申しますような、下らない妄想甚だしい推測すらせざるを得ませんでしたくらい、私にして見ますれば、
ユダの接吻(しかも、お口に!)♪
は、長年の聖書五万不思議の一つでございましたのよ。しかしながら『最後の誘惑』に於けます、一見では奇想天外な解釈;ユダはイエス様に乞われてローマ軍に密告された、のでしたら…ユダの熱き口づけの意味合いも素直な愛の表現として、辻褄が合ってしまいましょう?‘皮肉を込めた接吻’なぞと捻くれた見方をします必要などは、一切無くなるのです。ちなみに聖書には、マグダラのマリアが香油をイエス様のお御足に塗って差し上げていらした際に、ユダが‘そんな高価な香油があるのなら、それを売ってお金にすればどれほど多くの飢えている民が救われるか’と、申しますような批判をされたことが記してございます。彼のそうした発言が、然も裏切りの前兆でもありましたかのように。けれども…もし私が難民救済を目的としました慈善団体にでも属しておりまして、上司が元コール・ガールの御婦人にシャネルの5番で足ツボ・マッサージをして頂いておられます場面に出くわしてしまいましたら…
そりゃあ、憤慨して非難GOGO!

してしまうかと存じましてよ。ユダの発言は至って、マトモ!では、ございませんこと?更に申し上げますと、ユダの裏切りが本当に裏切りでありましたなら、その裏切り無しにはイエス様のミッションが達成されなかったことになってしまいます。この矛盾につきましては、一体如何なる御説明がございましょう?この問題に終生苦悶し続けられました敬虔なキリスト教の神父様も、かつて歴史上におられましたとか。その神父様が『最後の誘惑』を御覧になられたら、どんなに救われましたことでしょう。
ユダは忠実にして、裏切者で無し。
イエスは人間にして、神では無し。
『最後の誘惑』が聖書と大きく異なった見解を提示しておりますのは、先ずこの2点でございます。この映画の原作を書かれた小説家のニコス・カザンザキス様は、それが為に信者でいらしたギリシャ正教会から破門されてしまいました。死後はキリスト教徒の墓地に葬られますことも許されず、亡骸も何者かに奪い去られてしまわれたとか。如かしてその問題の原作;『キリスト最後のこころみ』を紐解いてくだされませば、カザンザキス様が如何に真摯な御姿勢でイエス様を尊ばれていらしたかがお分かり頂けましょう。人間という肉体と神聖なる精神の狭間に於いての、イエス様の二面性の葛藤。それを乗り越えて生贄の仔羊同様に、自らの総てを神に捧げんとされます彼の宿命。イエス様が聖書に描かれておりますように、他者に対しては愛と平和のお方様でいらしたとしましても、その内面では…
人間性と神性の想像を絶しますような闘い
が、繰り広げられていらしたのでは?とのカザンザキス様のイエス様像は、私には大きな衝撃でございました。『最後の誘惑』の中でローマ軍への密告を依頼します際に、イエス様は磔刑が恐ろしくて自らは出頭出来ないからお前に頼んでいるのだとユダに仰います。斯様なエピソードは申し上げますまでもなく、聖書には書かれておりません。けれども聖書に於いても、イエス様が磔刑に処せられます御自身の宿命に慄いて弱きになっていらしたことが、幾つかは記されているのです。それだけでも彼が当初から‘神の子’では決して無く、自らを生贄として捧げます任務を遂行されましてこそ、一人間から‘神の子’へと昇華されなさったことの、確たる証明と思わずにおれません。
イエス様も私達と違わぬ、弱き人間様でいらしたのです。
そんな弱き人間様が、一大決意をなさって神から与えられた犠牲という役割を、自ら望んで果たされたのです。そう考えませば、少しは有難味が出ては参りませんか?少なくとも私は、青春の大半を崇拝しますフリをして過ごしましたお方様に対して、斯様な解釈を以ってしてこそ彼の真の偉大さを、僅かばかりかも知れませんが、確かに実感出来ましてよ。尚、この映画のタイトルにございます‘最後の誘惑’が何を意味しておりますかは、実際に『最後の誘惑』を御覧になられて御確認くださいませ。昨年話題となりましたメル・ギブソン監督作『パッション』で、これでもかと申されんばかりに克明に描写されておりました肉体的な苦痛ばかりが、全人類に代わってイエス様が背負われた受難ではありませんことが、とくと御理解頂けましょう。最後に…私はキリスト教の信者ではありません。ですが、スコセッシ監督とカザンザキス様が描かれましたイエス様とユダに対しましては、
慈しみと共に畏敬せずにはいられないのです…
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◎今回のログに関連で御紹介したいログ:
・「“The Passion of the Wife”メル・ギブソンの『パッション』…」
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