『黒い雨』…映画版
剥奪された希望、剥奪された色彩
昨晩は今村昌平監督の、『黒い雨』を観ました。‘何?今まで観たことが無かったとは、何事ぞ!’と、映画学科の大学時代の恩師様方から御叱責されましょうけれど…確かにこの度、私は生まれて初めて映画『黒い雨』を観たのでした。中学か高校の現国の教科書で原作の一部が取り上げられていたことだけは、今でも鮮明に記憶しております。その箇所では若くて美しい娘さんが、何処ぞの病院に入院していらっしゃる様子が描写されていましただけ。故に先生の御説明無しには井伏鱒二氏の『黒い雨』という小説が、広島で被爆された方々の物語でありますことさえも理解出来ませんでした。教科書に掲載されておりましたその一部分だけでは悲壮感は露程も感じられず、それが現実に起こりました広島の悲劇に因んで書かれたという実感も湧かぬまま、『黒い雨』は私達にとって次の定期考査で点数を稼ぎます為のお題でしか無かったのです。
『黒い雨』のストーリーは、至って単純なもの。広島に住む閑間夫妻と、彼らの元に身を寄せていた姪の矢須子嬢は、原爆投下の際に被爆してしまわれます。矢須子嬢は広島市内におりませんでしたのに、悲運にも死の灰を含みました黒い雨に打たれてましただけで。終戦後、閑間夫妻は矢須子嬢のお嫁入り先を懸命に探しますが、既に被爆者に関します良からぬ噂が巷に流れていて、‘異常無し’と判を押された健康診断書を提示しましても、次から次へと縁組は破談に。やがて閑間夫妻の友人知人らも被爆が原因で、一人また一人と亡くなってしまいます。何れは御自身達も同じ末路を辿らんことを覚悟しつつも、閑間夫妻は矢須子嬢だけは健康体だと信じて、彼女の結婚を心から願い続けていました。けれども遂に、矢須子嬢のお身体にも異変が現れて…
映画『黒い雨』は教科書にありました原作と同様に、原爆投下当日の広島のシーン以外は、一見しますと長閑な田舎町に暮らします人々の日常を、淡々と描かれましただけのように思われます。矢須子嬢の縁談が纏まりませんのは憐れな事態なのでしょうけれど、現代女性の私からして見ますと、‘結婚出来ないからって、泣きますほどのことかしら?’と、少なからず矢須子嬢の価値観に疑問を抱かずにはおられませんでした。しかも、矢須子嬢の場合はお見合いばかり。以前から恋焦がれていらしたお相手様と結婚出来ない…という訳では無いのです。けれども、‘結婚ばかりが人生じゃないでしょ!’なぞと、矢須子嬢にはとても申し上げます気になぞなれません。彼女は決して贅沢な将来を希望していたのではありませんもの。矢須子嬢は普通にお嫁に行って家庭を築くという、多分に当時の女性にとりましては当り前の人生を送られたかっただけでしょう。
けれども斯様な普通の人生を、あの8月の黒い雨によって奪われてしまいました残酷な現実を、矢須子嬢は破談の度に認めざるを得なかったことと存じます。普通の女性としても普通の人間としても、何方様からも望まれません御自身様の宿命を、確と肌身で感じていらしたのでしょう。望みまして独身を貫かれますことと、望まれずに独身を貫かれますこと…この両者の隔たりは、実に大きいもの。御容姿が極端に見苦しかったり、御性格が非道く悪かったり致しませば、潔く諦めもつくかも知れません。ですが放射能を含みましたドス黒い水に曝されましただけで、そうとは知らずに運命が狂わされてしまいましたのでは、御身の御不幸を嘆かずにおられませんでしょう。それは正しく降って湧きましたような、忌まわしき呪い。それが如何に理不尽なものであっても、時間を戻しての遣り直しは利きません。
矢須子の叔父・閑間氏は近くの池に稚魚を放って、先々には大魚が釣れるよう計らいます。台詞等での説明はありませんでしたが、閑間氏のこの行為は遠からず被爆の後遺症で他界されますでしょう御自身様の行末を、そうとは認めながらも生への未練を断ち切れません同氏の心理を象徴しているように思えました。終戦当日に閑間氏は小川に群をなしている稚魚の姿を眼にしており、その日の記憶はそれしか無いと語っていらしたからです。それは戦争を生き抜かれました安堵感と、如かして同時にか弱い稚魚のように、斯くも脆きものへと化してしまわれた御自身様の命に対します絶望感…そんな複雑な想いが込められていたシークエンスでしょう。閑間氏は被爆者仲間と共に常日頃、稚魚を放ちました池で釣りに耽っておられました。けれども、釣れますのは小さな雑魚ばかり…
閑間氏は一度だけ、その池の主と呼ばれます大きな魚を目撃致します。それは被爆者仲間らが亡くなり、閑間夫人が亡くなり、矢須子嬢が黒い雨の影響で発病されましてから。寝たきりの矢須子嬢を気晴らしにと、散歩に連れ出された時のことでした。突然、鯉とも鮒ともつきません大きな魚が池から飛び跳ね出しては、水面に幾重もの水紋を残して再び水の中へ。それは一瞬の出来事でした。が、その途端…‘大きな魚が見えた!一メートル以上もある!嗚呼、また見えた!’と、既に姿を消している魚を指差しながら、狂人のように騒ぎ出したのです。けれども矢須子嬢には、確かに何度も池の主が見えていたのでしょう。その時の矢須子嬢の輝かんばかりの笑顔は、作中で彼女が見せました最後の笑みとなりました。彼女にとりましてその幻の魚は、御自身様の生命の力強さを垣間見せてくれました、束の間の希望でしたのかも知れません。
容態が悪化されてしまった矢須子嬢を、救急車が慌しく病院へと運ばれます様子を映されましたまま、映画は呆気なく終了してしまいます。付き添いは近所の青年に任せて、救急車を見送ってから呆然と遠くの山々を見つめます、閑間氏。は、「もし、向うの山に虹が出たら奇蹟が起る。白い虹でなくて、五彩の虹が出たら矢須子の病気が治るんだ」と、お心の中で呟かれます。けれども哀しい哉、この映画は全篇が…モノクロ。奇跡なぞ起こりませんことは閑間氏も、映画を観ておりました私も重々承知していたのです。そしてその最後のモノローグを聞いて、1945年8月6日8時15分を辛くも生き延びられた人々にとりまして、その後の半生は色彩を欠いたもの…灰の白さと雨の黒さだけに染められてしまったことを、この映画は観ます者達に確と刻印するものなのでした。命あります者の中に流れている赤い血も、矢須子嬢の平凡な未来をも奪いつくした黒い雨も、この映画では同じ色でしかございません…
追伸:昨夜は『黒い雨』を観まして、その余りに圧巻な内容に衝撃を受けてしまい、ログを書きます気になれなくて、一日サボッてしまいました。暫し言葉すら失わせてくれちゃう…そんな作品でした。御覧になってらっしゃらない皆様は、是非!観てみてください。陳腐なお涙頂戴映画ではありませんし、ハードな芸術映画でもありませんので、どうぞ毛嫌いなさらずに、お願い致します♪
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